新月に想うこと 畏れを無くして楽を施す

アセンションという言葉が、普通に通じる位になり、2012年12月22日の事とばかり思っていたら、本当は2011年、今年の10月29日に、今の次元が終わり、5次元に移行するそうである。全く、そのアセンションなるものが、どういうものなのかうまく想像する事も出来ないが、よく、5次元では、想念が、現実となるのが、瞬間的になるとか。思いのままらしい。素晴らしい事のようでもあり、また、少しこわい事でもある。想念の中の自分にとって、不都合というか、不快というか、畏れに基づく、本心とは真逆の想いを持つ癖が、人間にはある気がするから。例えば、こうなったらいいなと思いつつ、きっとそれは叶わないだろうとか、有らぬ取り越し苦労をして、はらはらするとか、よく有る事である。それが、思った瞬間に現実になるという事は、取り越し苦労ではすまない事になってしまう。だから、そもそも、5次元には、畏れを道連れには行けないのだろう。
わたしは30才の時、深夜に自分のアパートで、バシャバシャ顔を洗って、ふと鏡を見ると、額の真ん中のいわゆる第三の目から、米粒位の黒い影がパッと出て、パッと消えた事があり、その0.5秒位の出来事を何故かその影が、小さな雲に乗った千手観音だったと、認識してしまった事がある。
それ以来、お寺から出演依頼があれば、ご本尊は、千手観音。引越しすれば、大家さんの守り観音が、千手観音で、お隣のお寺の裏山には西国観音霊場の石観音だらけ、と、挙げればキリが無いほどに、行くとこ、逢うひと、千手観音さまだらけ。並々ならぬご縁を感じている。34才の時、舞踊公演の振付のテーマに千手観音を…と思いたち、いろいろと調べるうちに、 施 無 畏 という言葉に
出会った。せむい と読み、畏れを無くして楽を施す 事だという。千手観音はたくさんの手に、色々なものを持っている。ところが、ひとつの手だけは、だらりと下へさがって手放している。この手の格好が、そのまま、印になっていて、この印をもって施無畏を為すという。この施無畏が、以来、私の人生の命題となった。まず、ひとに楽を施すなど、おこがましく、大それた事である。畏れを無くすも、極めて難しい事だ。けれども、ひとつひとつ、一歩一歩、少しづつ、自分の中の畏れと向き合い、克服して来たように思う。全く、わざわざ大変なストーリー設定をして、畏れを克服するがための、道のりだった気がする。まあ、過去型では無く現在進行型でありますが。その道のりの中で、解った事は、結局、この施無畏の印そのものだという事。

手放す事。決して、無責任に、放り出すので無く、委ね、託し、許し、信頼する事。

これに尽きる気がする。でも、信頼する事は、外側では無く、内なる神性を。そうすれば、依存から自由になれる。孤独感や疎外感から、一歩遠ざかる事が出来る。本当に、少しづつだが。
今年に入り、大変な現実ばかりだが、結局、執着も、失う事への畏れだし、いつも、いつどうなってもOKOK! と、丸裸なこころが、楽 と言う事。

見えては来ている気がする。あとは腹に落とし込んで行く段階だろうと思う。
地球のアセンション迄、間に合って、何とか芸能をもって、楽を施す事が出来ますように。
新月の切なる祈りである、が、これも執着のうちかなあ〜( 苦笑 )

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